慶長15年(1610)2月、真田昌幸・幸村父子は、配流先の紀州・九度山で10回目の冬を迎える。表向きは徳川家への恭順を示しながら、忍びのお江らに天下の動静を探らせていた。京の室町で印判屋を装うお江は、京に浪人が増え、幅広い人脈を持つ才女・お通の屋敷に、人が頻繁に出入りする様子などから不穏な動きを察する。徳川と豊臣の対立が一触即発になった時こそ、世に出る好機と昌幸は踏んでいた。